H23初冬・長岡紀行

先週末、長岡に温泉旅行に行ってきました。
温泉は旧越路町の西谷温泉・中盛館(楽天トラベルで新潟の温泉宿で☆5つついてたんですよね)。
土曜午前は移動。路面に雪があるのは葡萄峠前後のみ。あとは長岡まで全くもってスイスイ。
早めの昼食は小嶋屋蕎麦・長岡喜多総本店にて。へぎ蕎麦
私は本ワサビをおろし、娘らはゴマを摺る。

季節の天ぷら。栃尾の油揚げ。(あと、画像はないですが牡蠣フライ)

食事のあとは、長岡近代美術館へ向かう。
道中、私の短大時代・20年前の長岡昔話に嫁と娘らは付き合うことになる。
当時は現在の古正寺町・喜多町などの長岡市の広大な信濃川西岸は開発中で、高速と8号線と主な国道・街道がある以外は昭和や平成初期の町並みがまばらにあり(ちょいと前の新発田R7界隈みたいな)、ハイブ長岡や越後交通の建物と広大な野原が広がっていたのです。
だから当時は、栃尾への峠・八方台に並ぶ走り屋流し地帯であったわけです。(気晴らしにかっ飛ばしたりバトルしたり、気になる女の子を連れてったり、友達のバイクを改造した後の試運転とか・・・。このへんは割愛して)


近代美術館では、「借り暮らしのアリエッティ&種田洋平展」をしてました。小人になった気分で体験できるジオラマが良かったです。
でも著作権とか大人の事情もあるんでしょう、展示ブース内は撮影禁止。ようやく撮影コーナーで、娘ら。
(上の娘が石川佳純のような雰囲気です。卓球でもフォアハンドの威力と切れ味も親バカながら向上してるのを感じるからかな)


近代美術館のあとは、県立歴史博物館へ。これ、大当たりでした。歴史マニアも満足する内容ながら、大規模なジオラマ含めて展示規模(アリエッティ展が4畳半のドラマみたいに感じました・失礼)に圧倒されます。
越後の始まりから順に来て中世のコーナーです。蝦夷地の併合、越の国や越後の成り立ち、荘園そして地頭領主。
中央集権から地方の領主制移行し中世になるわけです。我が県北での色部氏が支配する様子の展示があり大変興味ありました(色部氏は中世初めから神林・岩船の支配を、上杉家の移封まで長く続けていたのでした)
この写真は川中島合戦絵巻屏風と、上杉謙信(長尾→上杉景虎・輝虎)公の展示コーナー。レプリカでも、目の当たりにする英雄の資料は興奮を覚えます。

戦国乱世の中・信長以前、中央幕府に並ぶは関東府。関東府の実力者は関東管領です。これを越後の辺境から下克上した謙信の父・為景。その強力な支持者かつ部将であったのが色部氏です。
謙信の領国支配にあたり大きく3つの勢力に分類できます。●一族衆〜栖吉長尾(母実家)・魚沼上田長尾(義兄)・他の分家)。●有力越後衆〜幕府や関東府の将軍・管領一族つながりや歴史古い領主。そして●阿賀北衆〜古くからの荘園・地頭領主。越後国府(上越)から遠く戦略優位あり経済地盤も十分なため、越後支配者の支配力が弱い。
ですので阿賀北衆ってのは敵に回すと厄介で味方にすると右腕になりうるものでした。色部氏は謙信以後も米沢藩江戸時代の家老格でありつづけました。
逆に、阿賀北衆の反逆では上杉家を追い詰めることがたびたびあります。村上本庄氏が武田信玄と結んで謙信に反乱したときは阿賀北全てを巻き込み、降伏後も重役をになってます。新発田氏の反乱は越中信濃の騒乱に秀吉の圧力、越後内の分裂で代替わりの上杉景勝をとことんまで追い詰めました。

これは江戸時代の越後の石高(米の生産量)地図。

当時のほとんどの集落が網羅されてて、石高(経済力)まで明記されてます。地名が変わってたりしてますが、興味あります。
出羽街道から外れますが私のヤワタでは、勝木200石で次に
立嶋100石です。勝木川(当時は立嶋川)の流れも違い平野の分布も違ってたでしょう。そもそもヤワタには古くから立嶋氏という地侍がおり、当時の都合のいい地形や権力による縄張りにより石高が確保されていたのでしょう。

その後は近世(戦時中まで)の展示や資料を見学。
で、「新潟のあゆみ」は終了。


次に「雪と暮らす」
豪雪の記録など展示を見た後、新潟・中越上越訛りのおっかあ達のおしゃべりがかすかに流れるブースへ。昭和30年頃の高田をまんま再現してます。
画像の荒物屋、そして駄菓子屋、下駄屋と続いて、
おもむろに2階へ案内される。
なんじゃこの規模!。体育館アリーナほどの空間に昭和30年代の高田の雁木の町並みと雪下ろしをデカいジオラマ(縮尺1/1)で再現。
さっきまでみた古い商店も丸ごとのジオラマだったのね・・・
あの商店の数々はこのジオラマの1階にあたるんです。